郷土阿智村の後輩への提言

後藤 正(91歳)

私は阿智村(当時の会地村)駒場の出身で、昭和8年に会地小学校に入学しました。小学校時代は空き地で野球の真似事をしたり、親の言付けを放り出して阿智川で泳いだり、魚を捕ったりの言わば「悪がき」の一人でした。特に良く勉強した思いもありませんが小学校のみの成績は一応良かったようです。

中学校は飯田中学(現在の飯田高校、当時は5年制)へ進学しましたが、その頃村から中学へ進学するのは一学年から3~4人程度で、駒場から通うには夏は自転車で、冬は飯田に下宿する必要があり、私も親元を離れ注意されることも無く充分怠けた所為か、ただ水泳が旨いだけの成績もあまり冴えない生徒でした。中学2年の時、小さな出来事がありました。体操の鉄棒で「蹴上がり」が出来るのはクラスでホンの2,3人で、私も出来ず悔しい想いでしたが、何とか出来るようになりたくて、ある冬の日の放課後、寒い木枯らしの吹きすさぶ中、校庭で一人で鉄棒に取り組み、何十回となく繰り返して練習し、夕暮れで薄暗くなって手に血が滲み、痛さに耐えられなくなった頃、遂に成功した事がありました。その時の嬉しかったこと。私の中に「俺でもやれば出来るんだ!」と言う気持ちがめばえて来たのです。それが物事への挑戦のきっかけとなりました。次は数学の「幾何」でした。これもただ「山岬」と言う佐渡出身の幾何の先生が好きだったから、と言う簡単な理由からですが、これに集中すると次々に成績が上り、幾何のみでは学年でも誰にも負けない様になりました。実はこれらの小さな出来事が私の人世を大きく変える原因となったのです。

桐生高工(現群馬大学工学部)に進んだものの中学三年の時に始まった太平洋戦争は既に敗色を濃くしており、その一年半後には終戦を迎え、それから更に1年半ほどで私は群馬大学を卒業しました。

終戦後の大混乱の中の就職活動では、先ず第一志望は見事に失敗、次に入社した会社は2年ほどで倒産(当時は敗戦で経済も混乱し会社の倒産は日常茶飯事であった)してしまい、遂に失業保険を受給するという惨めな状態でした。

然し次に就職したのがある光学機器製造のT社でしたがこの会社で始めて中学時代に身に付けた幾何の学力が大変大きな効果を発揮し、多くの光学新製品を開発して会社の発展に大きく貢献することになりました。

その事も有ってか、そのT社の社長は自分の娘を私の妻にと強く勧めて来ました。私は当時既に同じ会社に勤めて居た現在の妻玲子さんと付き合っており、社長はそれを充分承知で自分の娘を強く勧めて来たのです。それを嫌った私は光学には未練がありましたが、その会社を玲子さんと一緒に辞めてしまいました。そして二人揃って二度目の失業保険受給の身のまま、阿智村に帰り玲子さんと結婚式を挙げたのです。

1ヶ月ほどした頃、T社の得意先の社長から呼び出しがあり出向くと「私は君がT社で大きな業績を上げた事を知っている、実は私の関連する会社が大きな負債(当時の720万円、今では数億円)を抱え倒産しかかって大勢が困っている、若しこの会社を再建してくれれば君の会社としてよい、なんとかやってくれないか」との希望である。当時何の資金も無い私にとっては大変な大仕事だ。何人かの先輩、友人に相談しても「君には開発技術がある、大きな借金から始めるより、零から始めたほうが良い」との意見が多い。到底無理と考えたが直ちに断るわけにもいかず、「一夜考えさせて」と言って夜遅く我が家(と言っても4畳半二間の古アパートだが)に帰りました。この時玲子さんは長女を身籠っていました。本来彼女は私の仕事について意見を言うことも無かったので、身重の彼女にこの様な話はどうかなと思いながらそれでも二人の人生に関わることだからと軽く「こんな話があるが、とても無理なので明日断ろうと思っている」と話しました。30秒ほどの沈黙が続きました。と突然彼女は私を見詰め、「私はその仕事を引き受けるべきだと思う、私は貧乏など平気だ、頑張ってやって欲しい」と言うのだ。私は驚いて彼女の顔を見詰めてしまった。数分ほどの沈黙の時間が過ぎた。そして私の覚悟は一気に180度転換し、彼女に答えていた。「よし判った、それでは3年間だけ思い切り努力する。その間だけ我慢してくれ、それで駄目なら諦める」と。

実は「この出来事」が契機となって私の会社は後に
〇8ミリ編集機分野で世界市場の85%、録音編集機で世界市場の100%、と言う圧倒的世界一の王者となり、更に8ミリの次には
〇コンパクトカメラでは有名メーカーのほぼ総てから受注
毎月産45万台と言う世界一の生産量を達成し、二度に亘って世界一の地位を獲得した
「GOKOカメラ株式会社」構築の契機となったのです。

そして私は妻と共に「誰にも羨望を感じない人生」を構築することが出来たのです。

これらの企業構築と経営の実体険の中で得られた人生の教訓について、これから新しい人生に立ち向かう郷土の若人達への助言として、人生に極めて有効であった自身の体険を記述して諸君の参考に呈したい。是非一読、参考にして頂きたい。それが私の郷土の若者達への願いです。
(ここに掲げる教訓には、私自身の経験によるものの他、先人の教訓、ポール J. マイヤーの教訓等も含まれている)

私の人生に有効であった考え方と行動

(1)人生の成功とは何か

人生の成功とは他人との比較では無く、将来に向って自身が「価値ある人生」と認める目標《それは成長と共に世間をより多く知り次々に増殖する可能性を含む》を設定し、それに向って努力し、その目標を構築達成することだ。そのチャンスを掴むか否かはその人の心構え如何による。

※人々には誰にも平等に成功のチャンスが与えられている。成功しないのはその人が目の前にあるそのチャンスをわざと避けてしまい、自身から掴もうとしないからだ。

※「同じ材料」を使って「城」を築く者も居れば、「豚小屋」しか出来ない者も居る。その訳は運ではなくて心構えの違いだけである。(ポール J. マイヤー)の言葉。

(2)「価値ある人生」は単に高学歴のみでは築けない

先ず自身が「このような人生を構築したい」と目標設定せよ。高学歴もその達成過程の重要な要素の一つだが、高学歴のみで「価値ある人生」は築けない。それは学業は目標達成への過程ではあるが目標そのものでは無いからだ。最高学府を出ても冴えない人生を送って居る者も少なくない。反対に高学歴では無いが、世界的大企業を構築した人も多い。その違いは人生への目標設定が明確如何に依る。高学歴に越した事は無いが、それのみで人生の真の成功は無い。

(3)何か一つの目標を決め挑戦する習慣を身につけよう

若し自分が成績が悪くても自分が劣等生だなどとは絶対に思うな。単に勉強しなかっただけの話だからだ。先ず出来るだけ好きな何か一つに目標を設定して集中して努力し「これだけは誰にも負けないぞ」と言うものを作ることだ。それは学科でもスポーツでも何でも良い。それが出来たらもう成功の第一歩だ。そして次の目標を設定しよう。

(4)「目標設定」の手法

新年の念頭に「よし、今年はこれをやり遂げよう」と心に決めてもそれは目標設定とは言わない。単なる夢に過ぎない。「今月はこれをやり遂げよう」と目標を決めたらその目標を4週間に4分割し、更に一週間分を6日に分け、それを予定表として紙に書き、その日程表通りに目標を確実に実行し始めた時に始めて真に目標設定したことになる。
この手法が君に習慣として身に付いた時「君は既に確実に人生成功の過程にある」。(ポール J. マイヤーの断言である)。

先ず最初は3日か1週間で達成出来る小さな目標を設定して必ず達成しよう。それが出来たら成功だ。そして次の目標を設定しよう。そしてそれを習慣付けるのだ。

(5)ビジュアリゼーションの手法

(目標が達成出来た後の自身の将来の「晴れ姿」を想像して励みとする手法だ)
「自分が目標とした人生が自身の努力によって達成出来た時の自身の姿」を想像し、人生に成功して歓喜に満ちた自身の姿を夢見るのだ。
そしてその姿を励みとして、更にその希望の目標に向って力強く突き進む手法のことだ。

(6)生涯の伴侶だけは慎重に選べ

「価値ある人生構築」にとって男女ともその結婚の相手如何は決定的な要素となる。今の時代だ。男女の交際も昔に比較すればこの上なく自由だが、それはそれとして最後に生涯の伴侶《結婚の相手》を決める時には徹底して充分慎重に考えよ。人生とは結局夫婦による協力作業であり、人生はある意味闘いであり、結婚の相手は唯一の味方だ。それによって人生構築の如何は将に天地の差が生まれる。如何なる高学歴もこの重要さの前には何の役にも立たない。

最後にフランスの哲学者アランの言葉を贈ります。
「人生は創造することによってのみ幸福である」

以上

GOKOグループ代表

2018年1月